”やんばる”で教育つぶやいてみる・メモ

沖縄県名護市・やんばるの教育全般についてメモを残していきます。

若い人の死

昨日、仕事先の係長の旦那さんが亡くなったということで、直接面識はなかったが告別式に参列した。42歳でクモ膜下出血が死因らしい。若すぎる。

 

自分も45歳をまわり、「四捨五入すると50かよ」と自虐的になりたい気持ちにしばしば襲われるが、確かに結婚式に出る回数よりも告別式に出る回数の方が多くなってきている。付き合いが広がったってこともあるが、まちがいなくそのステージに年齢が達しているということだと思う。

 

当然、年長者の告別式に出ることが多いが、時々同世代または自分より若いと、比較したり、明日はわが身かとちょっと考えてしまう。若くして逝ってしまった方の残された家族はつらいよなぁ、とつくづく思う。そして親の立場で考えると自分の子どもの葬式を出すってのは、考えてみりゃ最悪だなぁと。昨日の故人も前途有望で、働き盛り、これから社会でも会社でも背負っていくべきポジションじゃなかったかと、想像するとマイナスばかりである。

 

なんか泣けてきたのは、告別式の間中お経でなくて、ブルーハーツの曲が流れていて、それがまた古ぼけたトランペットスピーカーから時々割れた音として耳に届くこと。故人が好きだったんだろうなぁと想像するが、なんかかっこいいでもあり、一層やるせなさを引き立てられた。親しくない間なのに。私も死んだらブルーハーツのCDで送り出してもらいたいなと思った。そうしよう。遺言でもかくか、子どもたちはブルーハーツなんてグループ知らないだろうから。

 

明日までしか命がなかったとしたら、今何をするか。何をするべきかもあるが、何をしちゃいけないかと、自問しなさいと、どっかのメルマガに書いてあったな。生き急いでいるわけじゃないがあせりもあるし、微妙な感じ。

今夜何をするかな。何をしないかを考えると、まずは酒の誘いを断ることだが、これが難しい。ま、今夜に関してはだが。

 

名護の商店街もあまり時間がないのではないか。そんなあせりはある。最短距離で、あせるでもなく、のんびりでもなく、メリハリのきいた取り組みをしないといけないなと改めて感じている。

 

私が死んでも、また陽は昇るし、同じ朝がやってくる。何かを変えようとかでなく自分が一緒に変わっていけるようにしたい。いつ死んでもいいと豪語したいが、まだまだ道の途中であり、迷い中なので、若い人の別れのセレモニーで、「おれもまだ死ねないから、お前らも死ぬな」と呼びかけたい。そしていつやってくるか分からない死に対して準備なんてなくて、その日その日精一杯やるだけだろう。まぁ、私はその辺は適当に手を抜いているので、いまいちブレークしないのだが(笑)。

 

告別式のブルーハーツはかっこよすぎる。かっこ悪くてもしばらく生きないといけない。

 

立ち去る間際に流れていたのは「キスして欲しい」だった。